新月の空が、息をするように色づき始めた。まもなく夜が明けるのだ。
海の底は、このときも闇の世界を留めたまま、刃かと思うほどに凍てついていた。魚はなく、貝は隠れ、寄せては返す波だけが、雄々しく鼓動していた。
そこに、1人の女が、唇を青くしながら漁をしている。しかし、泳ぎは粗末で、銛を握る手は、漁など似つかぬ細さだ。皮膚の下には脂肪もなく、薄い胸元を笑うように、ふんどしだけがユラユラと踊っている。女は陸の者だった。
冷たすぎる海の水が、女の肌を突き刺してゆく。波が荒々しい音を轟かせた。女は逃げるように息を吸い、膨らんだ肺を海中に沈めた。
女は骨の髄まで凍えている。
それでも、最後に潜った海の底に、女は求めていた獲物を見つけた。女の心臓が一気に膨れ上がり、溶岩のような血がドッと全身に走る気がした。
一匹の魚が、海底の岩場に張り付くように泳いでいる。奇怪なことに、その魚には肩があった。
女は慎重に、だが急いで、銛を動かした。ところが、切っ先は虚しく水を掻いただけ。奇妙な姿の魚は、すでに真逆の方角へ動いていた。
女は諦めなかった。何度も何度も、同じことを繰り返し続けた。
やがて、女は肺に激痛を感じた。心臓が悲鳴をあげていた。女は、臓器など潰れてしまえばいいと鞭打つが、体は勝手に水の上へと這い上がって行く。
女が海面に飛び出した。真っ青な口で目一杯息を吸い込む。
女が何度か息を吸ううちに、波が女を陸に追いやろうとしてきた。女は、させるものかと、必死に海に食らいつき、もう一度凍てつく海の中に潜ろうとした。
そのときである。突然、女の背後から声がかけられた。
「あんた、夜通し海に潜っていたね」
女は驚いて、背後の海面を振り返った。
そこには、赤ん坊ほどの大きさの、ぐちゃぐちゃに皺の寄った、一匹の魚がいた。
話しかけてきたのは、この魚だった。
「このまま続けると、あんた、死ぬよ」
ただの醜い魚ではない。その魚には、人間の顔が付いていた。両側のヒレの部分に、2本の腕がニョッキリと生えている。しかし、胸から下は鈍色の鱗を持った、魚の体をしているのだ。
「貴女様は、人魚でございますか」
女は、震えながら魚に問い返した。寒さによるだけではない。女は、目の前の人語を話す魚が、物の怪の類だと知っていたからだ。
すると魚は、怯える女を面白がるように、ニタニタと笑いながら答えた。